3月 17, 2012

土のはなし

先週末、岡本にあるミドリカフェに行ってきた。このカフェ、入った瞬間すぐに心地よい空気に包まれる。街なかにあるにもかかわらず、店内は名前のとおり木と緑にあふれていて、お洒落で何ともいえず気持ちいい。初めて行ったとき、水のかわりに白湯を出してくれたのも嬉しい驚きだった。

長年神戸に住んでいるけど、家から大阪までの往復ばかりで、岡本はいつも素通り。このミドリカフェを知ってから、初めて岡本という街の魅力を知った。フェアトレードで有名なシサム工房なんかもある。そのほか、生き物や環境に負担をかけない暮らしを追求するお店が多く、なんというか、すごく文化的なレベルの高い街だなあと思った。少し京都に似ている気がするのは、学生が多いからだろうか。若い(とは限らないのかな?)店主さん達が集まって、「岡本ハッピーバトン」というイベントをやっていたり、すごく活気がある。

そのイベントのひとつとしてミドリカフェで催された「土のはなし」を聞いてきた。畑をやり始めてから、土への関心が高まっていたところだったので、すごくタイムリーだった。講師は西山雄太さん。姫路を拠点に土の再生に取り組んでいる若い人だ。

植物のよく育つ肥えた土というのは、堆積した植物やその他の有機物、微生物などによって何百年、何千年もかけて作られてきたもの。そういう肥沃な土が、世界中でどんどん減っていっているらしい。公園の土も、山の土も、そして畑の土もしかり。命を育む、本当に力のある土は長年かけて培われるにもかかわらず、今の人間の暮らし方では、その土を一瞬にして使い果たしてしまうかもしれない。そうなると、木も作物も育たず、自然災害がますますひどくなり、食料事情も悪化する。

現行の社会のしくみでは、本来、新しい土の原料となるはずの枝や枯葉や雑草などは、「産業廃棄物」として燃やされてしまう。そこで西山さんは、土の原料になる植物等のゴミは「みどりの廃棄物」として別枠を設け、適切に処理して土に返そうと提案している。とても重要な提案だと思う。考えてみれば当然のことだし、急務でもあると思う。

西山さんの話を聞いて思い当たることがあった。それはいま私が借りている畑。畑のふちに生えた笹があまりにしつこく芽を出すので、一度気合を入れて根絶やしにしてやろうと、畑の土を深く掘ってみた時、すぐに赤い土に行き当たった。赤い土は痩せた土。肥えた黒い土はほんの数十センチで、そのすぐ下に痩せた赤土が出てきたのだ。この畑の持ち主は雑草が大嫌い。せっせと抜いては捨てている。その「きれい好き」が祟って土がどんどん減っていったのかもしれない。

そして、家のすぐ裏の山。裾のほうに生えた木の根っこがむき出しになっている。これも以前あった土がどんどんなくなっていった結果らしい。ここも、近所の高齢者がせっせと掃除し、草抜きをしている場所。集めた草や落ち葉は、もちろん「生ゴミ」として捨てられる。

家の裏の小山。土が減って木の根がむき出しに。

ささやかながら自分でも何かできることをやってみようと思う。

せめて、今使わせてもらっている畑の土を決して減らすまいということで、ベランダで作りかけていた堆肥づくりを再開することにした。生ゴミの利用ということで以前から試みていたものだ。生ゴミ(できれば素性の知れた無農薬の農産物のゴミ)と、米ぬか、腐葉土、プランターに生えた雑草、ベランダに舞い込む落ち葉などをひとつにまとめて熟成させる。




あと、作物と一緒にレンゲを植えることで他の雑草を抑制するとともに、レンゲの緑肥効果(土の中の窒素成分を増やしてくれる)を狙う(ちょっとレンゲの植え方が足りなかったけど...)。温かくなったらタマネギの間にレンゲの花が咲く予定。

タマネギと一緒にレンゲを植えた

畑を始めた頃、前に使っていた人がほったらかしにしていた畝が雑草でびっしり覆われていた。その後、畑の持ち主の命に従いせっせと雑草を抜いて、草一本生えていない「きれいな」畝にした。そしてその後トラクターで耕してもらった。でも、いま思えば雑草に覆われていた時の土のほうが、土として元気だったように思う。ミミズもいっぱい居たし、だんご虫も、他の虫もいっぱいいた。土の中に大勢の生き物が暮らしていた。なんとか地主さんの目を盗んで、あの頃の土に戻せないものか。

コリアンダーとタイムの鉢に自然に生えてきたナズナ等
土さえあれば、植物は自然に生えてくる

光合成によって無機物から有機物を作るという創造行為は植物にしかできない。その植物が作ってくれた有機物を食べ、植物の作ってくれる酸素を吸って生きるしかない我々動物は、昔も今も、そしてこれからもずっと消費者の立場でしかない。いかに植物に元気でいてもらうかを考えるのは、私たちの生存に直結する最重要の課題だと思う。そのためには何よりも土!元気な土づくりは全ての基本だとつくづく思った。

2 件のコメント:

  1. ありますね。ありました。草を生やしていると「みっともない」「なまくらだ」なんて言われること。でもって、「ない」ことが「きれい」なことで「よい」ことだと思い込んでやっていくと、本分がわからなくなってきます。夏の暑さで若木が数本枯れて、雑草と言われる存在の大切さがわかりました。正直なところ、世話をする立場からも、手が抜けることは体が楽になって助かります。自然の摂理に従った「手抜き」はみんなにとって得となるようです。

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  2. やっぱりそうですか!果樹なんかは特に下草の存在が重要なんでしょうね。いろいろ試行錯誤された上での結論には重みがあります。

    人間の皮膚も、表面に生きている常駐菌の存在が守ってくれていると聞きます。過度に殺菌したり洗浄したりして「きれい」にしすぎると、かえって皮膚が荒れるそうです。

    人体の表面と地球の表面、なんか似てると思いました。

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